樹の海

以前、ある心療内科で事務員として働いていた女性から聞いた話です。

ひとりの、毎週通ってきている３０歳くらいの男性がいたそうです。
ある日、その男性の順番がきて呼び出しをしたのになかなか現れず、
しばらくしてやってきた彼は
「すみません。上司から電話があり説教をされていたので遅くなってしまって」
と言い訳したそうです。
彼女は事務員なので、その男性にそれ以上のことを尋ねるつもりはありませんでしたが、
彼のほうから、自分が今仕事のことで悩んで、不眠症になり、その病院に通っているのだということ、
母親はまだ心配してくれているが、父親は「お前が精神的に弱いんだ」と責めることまで話したそうです。
そして「死にたいと思っている」と。
彼女は憤りを感じました。
父親の言うことは間違ってはいないけれど、
今そんなことを彼に言ったところで、何の救いにも、事態の好転にも結び付かない。
逆効果であることがわからないのかと。

でも、自分はただの事務員であり、医師でも看護師でもないので、
彼に自分の考えを言うことは許されないことだと思い、
ただ彼の話を聴くことに徹していたそうです。
そんなことが続いて何回目かに、彼女はついに我慢しきれず、
「死ぬくらいならその仕事を辞めればいいじゃないですか。
別のところでアルバイトしたって生きてはいけるんですから。」
と言ってしまったそうです。

毎週一週間分の眠剤を処方してもらうために通院していた彼が、
それから１ヶ月ほど現れなくなり、
彼女は「やっぱり自分の立場を越えたことを言ってしまったのだろうか。」
と心配していたところへ、彼は見違えるほど明るい顔をして現れ、
「あなたに言ってもらって、その通りだと思い、会社に辞表を出しました。
今はまだ残務整理で出勤していますが、あの日から薬を飲まなくても
眠れるようになりました。ここへ来るのも今日が最後です。」と言ったそうです。

そんな彼女が最近、今度は自分の職場でのことで悩んでいます。
少し前に、先輩からあることについて３日間よく考えて、
自分の考えを述べるようにと言われたのですが、
初めの２日間はそのことについてまったく考えることができず
どうやって死のうかと、死ぬ方法ばかり考えていたそうです。
そして、３日目に突然吹っ切れ、いつかの彼に言った言葉を思い出し
自分にも、同じことを言ったそうです。

自殺は犯罪だと思います。自分を殺すのですから殺人です。
自殺をする人にはそれだけの辛い思いがあるのだということは想像できます。
でも、どこかに生きる道があるのではないのでしょうか。
そして、その人が自ら死を選ぶことを心から悲しみ、
どうしてそうする前に相談してくれなかったのかと
苦しむ人もいるのではないでしょうか。
そんなことを考えつく余裕があれば自殺はしないだろうとは思いますけれど。

生きていたいのに、死んでしまう人もいます。
そんなことだって冷静になればわかっているはずです。
でも苦しくて、苦しくて他のことなんて考えられないんですよね。

一年間の自殺者数は、交通事故で亡くなる人を大きく上回っているそうです。
ひとりひとりが目の前の一人の人を止めることができれば
この数は減らせるのでしょうか。

　リンチに遭って殺され（たはずの）樹海に投げ捨てられた男、朝倉。彼は一命をとり止め、やがて樹海をさまよううちに、自殺しようとする中年男田中に出くわす。

　携帯電話一つを持って樹海を彷徨する若いヤクザは、ヤミ金融の取立人だ。彼が携帯で話している相手は北村今日子という若い女。彼女は厳しい取立てに疲れ果て、自殺するために樹海に入ったのはいいけれど、足をくじいてヤクザに助けを求める電話をかけてきたのだった。

　サラリーマンの山田は、私立探偵の三枝から呼び出され、自分と一緒に写真に写っている若い女性の自殺について質問される。女のことはまったく記憶に無い山田だったが、記憶をたどるうちに彼女のことを思い出す…。

　駅の売店の売り子をしている映子は、客から金を受け取るのに素手ではできなくて、手袋を着用してトレイで受け取るような「人嫌い」の若い女だ。有名大学を出て銀行員をしていた彼女に何があったのか…。


　それぞれの話はほんの少しずつのつながりがあるけれど、ほとんどが独立した物語だ。そして、それぞれの物語の合間を縫って何度も登場するのが朝倉。彼だけが自殺願望ではなく、殺されかけて樹海にいる人間だ。彼以外の人々はみな、孤独を抱え、癒されない傷を負って樹海をさまよう。朝倉とて、戻れば「地獄」が待っている身の上ゆえ、捨て鉢になっている。自殺した田中の死体とともに一夜を明かす朝倉はたいがい変だ。

　人は「死」と向き合うときに、様々な思いを思い出し、そして生きていることの喜びも悲しみも再確認する。ゆきずりの女の死を知らされたことによって一期一会のかけがえのなさを知るサラリーマン山田と、冴えない探偵三枝との会話の自然な流れはしみじみとした味わいを残す。

　孤独な人間どうしは互いの寂しい匂いに敏感だ。携帯電話一つだけでつながり続けるこの世とあの世の入り口で、孤独なはみ出し者どうしが出会う第2のエピソードには思わず涙しそうになった。東京タワーが泣かせる。

　最後の井川遥のエピソードもほのぼのと温かい。人は名も知らぬ人に癒されることもある。大都会の片隅でふとすれ違うだけの人から大切な何かを教えられることもある。


　ヤミ金融のヤクザ者の話が一番ぐっときてしまった。全部見終わった後、「ああ、これはよかったな」としみじみしてしまう映画です。

山なのだから裏も表もないのだけれど、一般的にはそう言われている方角に位置する広大な樹海。
緑豊かな生命の根源ともいうべき、マイナスイオンが大量に発生しているのであろう場所を人生の最後の場所として選ぶということは何と皮肉なことでしょう。
松本清張の「波の塔」でヒロインが樹海に消えていくラストシーンから自殺の名所として有名になり、以来自殺者が後を絶たないという。しかし、実際はそんなロマンチックなものではなく、この映画に出てくるエピソード１の「田中さん」の変わり果てたお姿は見るに耐えないものでした。
この映画を作ったきっかけが知人の自殺がショックで「自殺をしてはいけない」という思いからということなので、あの無残な画面を長時間流し続けたのは製作者の意図するところであったのでしょう。

人は死ぬ。いつか死ぬ。絶対に死ぬ。
そんなに慌てなくても何れその時は来るのです。ジタバタせずに待ちましょう。

さてこの作品、どのエピソードも秀逸で、「死」を扱いながら、「人生捨てたもんじゃない」と思える締めくくりで、生きる希望が湧くお話になっています。
特にエンドロールの「遠い世界に」は魂に訴えるものがあり、しみじみと泣いてしまいました。

明るい映画ではないのだけれど、不思議と観終わった後一筋の光を感じられるとてもいい映画でした。
自殺の名所、富士の樹海を舞台に織り成す４つのエピソード。
自殺する者もいれば、そこから這い上がる者もいる。
それぞれのエピソードがほんのすぐ隣のような近さで描かれます。駅や信号で待つ、隣の隣の隣の人のような物語。
昔、ストーカー女性の嫌がらせの電話を受けたことがあります。
電話に出た途端、「死ねー、地獄に落ちろー」と絞り出す様な恐ろしい声。あの負のエネルギーは凄まじいものがありました。
発する方も受ける方もかなりのダメージ。きっとあの底から這い上がるのはすごく大変。
この映画はそんな負のエネルギーをほんの少し浄化してくれる映画。生きろなんて強いメッセージでもなく、生きていたらきっといい事あるよ、なんていう優しいメッセージでもないかもしれない。ただふっと上を見上げたときの光に導かれるような、ささやかだけど、とてもいい映画だなぁと思いました。

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こんなに優れた作品だとは思わなかった。ファースト・シーンから魅了され画面に釘付けとなる。

まず、こちらの読みを心地良く裏切っていく展開。オムニバス形式で４つのエピソードが進行していくが、それぞれ語り口が違っている。

次はこうなっていくのかという予断をことごとく打ち破り、思いもかけない方向へ物語が進んでいく。

そして、こちらの感情に同調させて、胸を熱くする衝動が待っている。樹海の死という暗黒に対峙して、生を取り戻していく鮮やかさに魅了された。