「陽はまた昇る」(1957年、米国、カラー、135分)。 アーネスト・へミングウェイ(1989〜1961)の最初期の長編小説「陽はまた昇る」(「The Sun Also Rise」1926年刊)が原作です。27歳の年。同年刊行の「春の奔流」(「The Torrents of Spring」)が第一長編ですが注目されず埋もれたままでした。実質は「陽はまた昇る」が有名になった最初の長編です。 この作品までのヘミングウェイの人生について、整理しておきます。 (高村勝治訳「われらの時代に」講談社文庫 昭和52年 第1刷 巻末の年譜による。) 出生地のシガコ近郊オーク・パークのハイ・スクールを卒業した1917年、ミズーリ州・カンザスシティの地方紙「カンザスシティ・スター」の見習い記者となります。米国が第1次大戦に参戦すると、翌1918年、赤十字の一員として北イタリアに配属され、ヴェネチアの近くのフォッサルタの対独戦で重傷を負います。この時の状況については、米国帰国後の1926年に書いた次の長編「武器よさらば」(1929)で書かれています。翌1919年、松葉杖をついて、米国の故郷オーク・パークに帰還。翌1920年、シカゴで作家シャーウッド・アンダーソン(1876〜1941)の薫陶を受け彼の勧めで、翌1921年、「ロント・スター」の特派記者としてパリに赴いた。最初の妻エリザベスがいました。パリでは、米国出身の作家・美術収集家ガートルード・スタイン(1874〜1946)、米国出身の詩人エズラ・パウンド(1885〜1972)の指導を受けます。アンダーソン、スタイン、パウンドの三角形の影響が、ヘミングウェイの文体、つまり修飾語を排した短文体を生みます。この文体で、彼は詩集、短編集、そしてこの長編「陽はまた昇る」を書きました。 第1次世界大戦(1914〜1918)は、欧州では英国、フランス、イタリア、ロシアなど多数が戦勝国で、敗戦の負債を主にドイツが背負うことになり、それが次の大戦の火種になりますが、まだ、パリは戦勝景気の盛りです。パリのスタイン女史のサロンには、ヘミングウェイのほか、米国の作家フィッツジェラルド、アイルランドの作家ジョイス、仏のデザイナーのココ・シャネル、亡命ロシア人の舞踏家ディアギレフ、同じく作曲家ストラヴィンスキー、仏の作曲家ブーランク、ラヴェル、詩人ジャン・コクトー、画家ピカソ、ローランサン、マチス、ミロ、藤田嗣治がいた。多彩な芸術家が集まり、交流し、爛熟し、ナチスドイツの台頭とともに、それぞれの課題を抱えて故国へ帰ったり、流浪の旅へ散っていった。
「陽はまた昇る」(1957年、米国、カラー、135分)。 アーネスト・へミングウェイ(1989〜1961)の最初期の長編小説「陽はまた昇る」(「The Sun Also Rise」1926年刊)が原作です。27歳の年。同年刊行の「春の奔流」(「The Torrents of Spring」)が第一長編ですが注目されず埋もれたままでした。実質は「陽はまた昇る」が有名になった最初の長編です。 この作品までのヘミングウェイの人生について、整理しておきます。 (高村勝治訳「われらの時代に」講談社文庫 昭和52年 第1刷 巻末の年譜による。) 出生地のシガコ近郊オーク・パークのハイ・スクールを卒業した1917年、ミズーリ州・カンザスシティの地方紙「カンザスシティ・スター」の見習い記者となります。米国が第1次大戦に参戦すると、翌1918年、赤十字の一員として北イタリアに配属され、ヴェネチアの近くのフォッサルタの対独戦で重傷を負います。この時の状況については、米国帰国後の1926年に書いた次の長編「武器よさらば」(1929)で書かれています。翌1919年、松葉杖をついて、米国の故郷オーク・パークに帰還。翌1920年、シカゴで作家シャーウッド・アンダーソン(1876〜1941)の薫陶を受け彼の勧めで、翌1921年、「ロント・スター」の特派記者としてパリに赴いた。最初の妻エリザベスがいました。パリでは、米国出身の作家・美術収集家ガートルード・スタイン(1874〜1946)、米国出身の詩人エズラ・パウンド(1885〜1972)の指導を受けます。アンダーソン、スタイン、パウンドの三角形の影響が、ヘミングウェイの文体、つまり修飾語を排した短文体を生みます。この文体で、彼は詩集、短編集、そしてこの長編「陽はまた昇る」を書きました。 第1次世界大戦(1914〜1918)は、欧州では英国、フランス、イタリア、ロシアなど多数が戦勝国で、敗戦の負債を主にドイツが背負うことになり、それが次の大戦の火種になりますが、まだ、パリは戦勝景気の盛りです。パリのスタイン女史のサロンには、ヘミングウェイのほか、米国の作家フィッツジェラルド、アイルランドの作家ジョイス、仏のデザイナーのココ・シャネル、亡命ロシア人の舞踏家ディアギレフ、同じく作曲家ストラヴィンスキー、仏の作曲家ブーランク、ラヴェル、詩人ジャン・コクトー、画家ピカソ、ローランサン、マチス、ミロ、藤田嗣治がいた。多彩な芸術家が集まり、交流し、爛熟し、ナチスドイツの台頭とともに、それぞれの課題を抱えて故国へ帰ったり、流浪の旅へ散っていった。