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ビートルズのメンバーとして一世を風靡し、解散後もソロとして数々の名曲、ヒット曲を世に送り出す一方、インド文化への傾倒や映画界との交流などでも知られるロック・ミュージックのレジェンド、ジョージ・ハリスンの生涯に迫る音楽ドキュメンタリー。巨匠マーティン・スコセッシを監督に迎え、少年時代からビートルズの誕生とその全盛期を描く<第1部>と、ビートルズ解散前後からソロとしての多方面での活躍を描く<第2部>の2部構成の下、ポール・マッカートニーやエリック・クラプトンなどの多くのミュージシャンをはじめ、家族や彼と親交のあった人々の貴重な証言と数々の名曲とともにジョージ・ハリスンの偉大な足跡とその実像を描き出していく。
製作年: |
2011年 |
---|---|
製作国: |
イギリス |
原題: |
GEORGE HARRISON: LIVING IN THE MATERIAL |
監督: |
マーティン・スコセッシ |
---|---|
製作: |
オリヴィア・ハリスン 、 ナイジェル・シンクレア 、 マーティン・スコセッシ |
製作総指揮: |
マーガレット・ボッド |
出演: |
ジョージ・ハリスン 、 アストリット・キルヒャー 、 ダーニ・ハリスン 、 エリック・クラプトン 、 テリー・ギリアム 、 ポール・マッカートニー 、 エリック・アイドル 、 ジョージ・マーティン 、 ジャッキー・スチュワート 、 ジェーン・バーキン 、 ニール・アスピノール 、 ジョージ・ハリスン |
音楽: |
ジャイルズ・マーティン |
ジャンル : HOWTO ドキュメント/その他
ビートルズのメンバーとして一世を風靡し、解散後もソロとして数々の名曲、ヒット曲を世に送り出す一方、インド文化への傾倒や映画界との交流などでも知られるロック・ミュージックのレジェンド、ジョージ・ハリスンの生涯に迫る音楽ドキュメンタリー。巨匠マーティン・スコセッシを監督に迎え、少年時代からビートルズの誕生とその全盛期を描く<第1部>と、ビートルズ解散前後からソロとしての多方面での活躍を描く<第2部>の2部構成の下、ポール・マッカートニーやエリック・クラプトンなどの多くのミュージシャンをはじめ、家族や彼と親交のあった人々の貴重な証言と数々の名曲とともにジョージ・ハリスンの偉大な足跡とその実像を描き出していく。
製作年: |
2011年 |
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製作国: |
イギリス |
原題: |
GEORGE HARRISON: LIVING IN THE MATERIAL |
監督: |
マーティン・スコセッシ |
---|---|
製作: |
オリヴィア・ハリスン 、 ナイジェル・シンクレア 、 マーティン・スコセッシ |
製作総指揮: |
マーガレット・ボッド |
出演: |
ジョージ・ハリスン 、 アストリット・キルヒャー 、 ダーニ・ハリスン 、 エリック・クラプトン 、 テリー・ギリアム 、 ポール・マッカートニー 、 エリック・アイドル 、 ジョージ・マーティン 、 ジャッキー・スチュワート 、 ジェーン・バーキン 、 ニール・アスピノール 、 ジョージ・ハリスン |
音楽: |
ジャイルズ・マーティン |
---|
収録時間: | 字幕: | 音声: |
---|---|---|
207分 | 日・英 | 1:ドルビーデジタル/5.1chサラウンド/英語 |
レイティング: | 記番: | レンタル開始日: |
DABR4111 | 2013年10月04日 | |
在庫枚数 | 1位登録者: | 2位登録者: |
12枚 | 0人 | 0人 |
収録時間:
207分
字幕:
日・英
音声:
1:ドルビーデジタル/5.1chサラウンド/英語
レイティング:
記番:
DABR4111
レンタル開始日:
2013年10月04日
在庫枚数
12枚
1位登録者:
0人
2位登録者:
0人
DVD
収録時間: | 字幕: | 音声: |
---|---|---|
207分 | 日・英 | 1:ドルビーデジタル/5.1chサラウンド/英語 |
レイティング: | 記番: | レンタル開始日: |
DABR4111 | 2013年10月04日 | |
在庫枚数 | 1位登録者: | 2位登録者: |
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収録時間:
207分
字幕:
日・英
音声:
1:ドルビーデジタル/5.1chサラウンド/英語
レイティング:
記番:
DABR4111
レンタル開始日:
2013年10月04日
在庫枚数
12枚
1位登録者:
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1〜 4件 / 全4件
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この本には、当時彼と同時代に活躍していたアーティスト達の亡くなったジョージに対するコメントが掲載されているのが興味深い。ミック・ジャガー「あいつのやったことで画期的な事はロックンロールとチャリティーを結びつけたことだ。それに「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウイープス」、素晴らしい悲哀に満ちた曲だ。ああいう曲はギタリストしか書けないよ。大好きな曲だ。それから「マイ・スイート・ロード」。あの曲と同じコード進行の曲はいくらでもあるが、あれはすごくいい曲だ。ビートルズは人生の大きな一部だったからね。ああいう人間が亡くなると、ある意味自分の人生の一部が欠けてしまったような気分になるもんだ。」キース・リチャーズ「ジョージと俺は同じタイプだった。そのことをそんなに語り合ったわけじゃないけどね。それぞれのバンドで同じ役割を果たしていると自負していた点では絆が出来てたね。うなづいてウィンクして「俺たちがいなきゃバンドは成り立たないぜ」って言い合うみたいな。俺が連中の中で初めて親しくなったのはジョンだった。ジョージは静かだったからね。ジョージを見てるといろんな点でチャーリー・ワッツを思い出すよ。控え目で謙遜していて紳士的なところとかね。俺自身はそうじゃないからね。けどあいつは紳士だった。」後年、ジョージが自宅で強盗に刺される事件についてキース「あんな素敵な奴があんな暴力を受ける羽目になるなんてね。つまり、オレならそういうのには馴れているんだ。何度も刺されたし、銃で撃たれた治りかけの傷もあるし」(何か可笑しい。流石ヤンチャ男だ。)エルトン・ジョン「ジョージには昔からすごく良くしてもらってた。僕が初めてアメリカに来て「エルトン・ジョン」を出した頃、チャートで18位とか19位だったかな、チャートには僕のヒーローだった人たちの顔ぶればかりで、それを見て夢かと顔をつねった頃だ。ジョージからお祝いの電報が届いた。今でもそれはどこかにしまってあるよ。彼は思ったことをはっきり言う人で、僕のドラッグ問題のことで何度か叱りとばしてくれた。「サムシング」は、きっとこれまで作られた最高のラヴ・ソングでビートルズが作ったラヴ・ソングの中でも最高だ。「イエスタディ」よりずっといいね。」ポール・サイモン「ジョージとの友情が芽生えたのは1976年、「サタデー・ナイト・ライヴ」で共演したときだ。2人でアコースティックを抱えて椅子に並んで座って「ヒア・カムズ・ザ・サン」と「早く家に帰りたい」を歌った。僕がアート・ガーファンクル以外の人と共演したのと同じで、ジョンやポール以外の人とハモるなんて彼には違和感があっただろうね。それでも自然とコラボすることができた。彼の曲作りについても手法が自分に似ているといつも思っていた。みんなからは「静かなビートル」と呼ばれていたけど、特に静かというわけではなかった。単に自己主張しなかっただけなんだ。」ボブ・ディラン「彼は巨人かつ極めて偉大な魂であり、人間味、ウィットとユーモア、知恵、信仰心、常識、人々への思いやりを兼ね備えた人間だった。人々に愛をもたらし、百人分の力を持っていた。太陽、花、月のようだった彼を失った悲しみは計り知れない。彼のいない世界は底知れず空虚だ。」オノ・ヨーコ「ジョンはジョージを愛し、ジョージもジョンを愛していました。2人の友情はとても特別なものでした。ジョンはいつもジョージのことが正当に評価されないことを気にかけていたくらいです。これまでの慣例を破り、「サムシング」をレノン・マッカートニー以外のクレジットで、ビートルズのシングルとして出すことを主張したのはジョンでした。ジョージもそれを覚えてくれていました。」・・・自分は彼がジョンとポールという二人の強者の間で、ソングライターとして彼は唯一、誰も経験出来ない特殊な環境で徐々に実力をつけていくという事が出来た強運の持ち主だと思う。その一方で彼は運気の浮き沈みが激しくてグループ解散直後は4人の中でいち早く全米NO.1の大ヒット「マイ・スイート・ロード」、3枚組大作「オール・シングス・マスト・パス」を放ち、チャリティコンサートの元祖になった「バングラデシュのコンサート」を開催して序盤は快進撃を果たした、その一方で「マイ・スイート」が盗作で訴えられ敗訴、喉の不調もあって北米縦断コンサートの不評、才能が徐々に枯渇しヒット曲が出なくなって、その後自宅が強盗に入られて大ケガをしたり、その一方で人の曲ではあったが「セット・オン・ユー」が全米NO.1を獲って久々に輝き、彼が自宅に引き籠もっていた時期にクラプトンが一緒に観客のマナーがいい日本でコンサートをやろう、と引っ張り出してくれたのには本当感謝である。そしてまだ58歳の若さで逝ってしまった。彼を見てきて、4人の中で特に人生を感じる。
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ビートルズ時代から、亡くなる直前までのジョージのインタビュー記録を年代順時系列に1冊にまとめたブ厚い書籍が最近出版された。自分が印象に残った箇所を抜粋する。
1970年「当時は積極的に曲作りに関わるのが難しかった。ビートルズがポールとジョンの曲で成功したせいもあって、なかなかそこに入り込めなかったんだ。昔からずっと一番声を多く上げた人の曲を皆でやる流れがあった。そうなると自分の曲を積極的に売り込むのが正直面倒臭かった。「アビイ・ロード」の時だって8曲くらいレコーディングしてから漸くボクの曲の番が回ってきた。
なぜそうなるかって、ボクが「曲を書いてきた」と言うと、ポールも「ボクも書いてきたよ。タララララ〜という感じで始まるんだ」と言い出して、気付くと彼の曲を皆でやっている。そこに食い込むのが本当に難しかった。ゴリ押ししたり、大声を出したりするのは苦手だ。でも、この1年くらいで漸く皆で決めたんだ。まあ、これも冗談みたいな話なんだけど。ボクが3曲、ポールが3曲、ジョンが3曲、そしてリンゴが2曲担当する」
1975年「で、いざバンドを結成してセミプロでやっていた頃から、手応えみたいなものは感じていた。それは単なる自惚れかもしれないし、ただ生意気だっただけなのかもしれないけど、そんな事も分からない位、ボクたちは若かった。何かは分からないけど、ボク達には何か秘めたものがあった。カルマ・・・。何か前世と関係してるカルマだと思う。自分達が成功する予感が常にあった」
「ブライアン・エプスタインが生前結んだEMIとの契約には、もう一つポイントがあって・・・、確か製品要求条項というものだと思うんだけど、ある一定量の作品を提供しないといけない、という条項が含まれていて、実際は、その条項を既に1967年の「ホワイト・アルバム」で満たしているんだ。従って、あのアルバム以降ボク達は彼らに何の借りもないんだ。でも、そこで判明したのは義務は無くなったものの、もし何かを出すとなったら、それは自動的にEMIに行く、という契約だった事。つまりどういう事かというと、この5年間、ボク達は誰一人として作品を作らなくてもよかった。契約上の義務は何も無かった」
1977年「そもそも彼等(ジョンとポール)は沢山曲を書いてきて、当然自分達の曲が優先されると思っているから、ボクからすると彼等の曲を10曲やるまで待って漸く自分の曲を聴いてもらえた。だから「オール・シングズ・マスト・パス」にあれだけ沢山の曲が入っているんだ。ずっと出せずに便秘状態だった。そのせいで曲作りにずっと自信が持てなかった。なんせ、「へえ、いい曲だね」とは一度も言ってもらった事が無い。「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」を最初にレコーディングした時なんて、全く熱意が感じられなかった。いい曲だって手応えがあったから、本当に落ち込んで家に帰ったよ。
それで翌日、エリック・クラプトンをスタジオに連れて行く事にした。彼は凄く緊張していたよ。彼には「来てギターを弾いてくれればいいから。そうすればボクはアコースティック・ギターを弾きながら歌えるから」と伝えた。因みにビリー・プレストンを「レット・イット・ビー」に引き込んだのもボクで、その時も同じだったんだけど、その日、エリックが来た事で他のメンバーが、といっても主にジョンとポールだけど、少し自制して、普段より気前よく振舞うようになったんだ。エリックは「いや、彼等に何て言われるか分からない」と言って、凄く神経質になっていたけど、ボクは「彼等はどうでもいい。これはボクの曲だ」と言った。彼はメンバー以外でビートルズの作品に参加した初めての人だ」
「(エリック・クラプトンについて) エリックのことはボク達二人とも(ジョージと妻のパティ)大好きだった。今でもだ。でも長い付合いの中で、おかしな事が何度かあった。ボクが彼の恋人に手を出した事も1度あった。そんな事もあったから、彼がきっと仕返しをしたんだろうと普通は思うよね(笑)。
パティと彼が一緒になったのは、ボク達が完全に別れた後だ。何年もの間、ボク達は別れたも同然の状態だった。彼等が一緒になった事に対してボクは何のわだかまりも無かった。むしろ悩んでいたのはエリックの方だ。彼に会う度に、ずっと気にしてて。ボクがいくら「頼むよ。謝らないでくれ」と言っても信じてもらえなかった。「気にしてないから」と何度も言ったよ」
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※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
マーティン・スコセッシがジョージ・ハリスンの曲が好きなのは昔、彼の監督作「グッド・フェローズ」の中で当時のヒット曲が数多く流れる中に、ジョージの「美しき人生」を終盤、いい箇所で流していたので、それを感じていた。そして、後年、彼はビートルズではなく、ジョージ一人に焦点を当てたドキュメンタリーの本作を発表した。内容もPART1、2に分けてかなりの大作になっている。自分はこのソフトを発売と同時に購入したが、添付資料の冒頭の挨拶文に彼はジョージの「オール・シングス・マスト・パス」を初めて聴いた時を「私のハートはわしづかみにされた。」と述べている。ローリングストーン誌が出したジョージの関連本「コンプリート・ワークス」について書きたい。幾つか面白いエピソードが書かれてあった。●ビートルズ初期の頃のジョージ「ビートルズの中での自分の役割は、前にしゃしゃり出ないことだった」ジョン「ガキみたいに僕の後ろにくっついていた。あいつを同等と認めるまで何年もかかったよ」●余りに有名な話だが「ホワイトアルバム」で最も周りが認めてくれるだろうとジョージが期待していた「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウイープス」を聴かせた時にも、ポールとジョンは冷ややかだった。(この本の中でポールは同時期の「ジ・インナー・ライト」に対しては「インド音楽ということを忘れて、メロディーに耳を傾けてほしい」と述べて褒めているのだが)この曲をどうしてもアルバムに収録したかった彼は作戦を立てた。親友のエリック・クラプトンをセッションに迎えリード・ギターを任せたのだ。その頼みにクラプトンは「無理だ」と言って戸惑った。「誰もビートルズでプレイした奴はいないよ」と拒んだが、ジョージの説得で参加する。しかし、これほど際立ったギター・ソロを聴かされては、メンバーの誰も拒否出来なかった。●「サムシング」について「アビイ・ロード」のベストソングと認めながらも、殺される直前のプレイボーイ誌のインタビューでジョンは冷たい発言をしている。「あいつは2人の優れた作曲家と仕事をしていてそこから多くを学んだ。ジョージの存在は気にならなかったよ。透明人間みたいなもんさ」●同じく「サムシング」についてジョージ・マーティン「あの曲には驚いた。まさかジョージがここまでやれるとは思わなかったからね。初めはひどい曲を書いていたが、徐々に成長していったよ。私は少し自己嫌悪になってるよ。初めの頃もう少しかまってやればよかったってね」●「オール・シングス・マスト・パス」この3枚組アルバムについてジョン「あいつは狂ってる。3枚組のレコードを出すなんてさ。それにジャケットなんてまるで喘息のレオン・ラッセルみたいだ」ジャケットを見てジョンが苛立ったのは、ジョージが広い景色にぽつんと座り、周りを4人の怠け者のノーム(小さな妖精)が囲っている姿は。落ちぶれたビートルズの暗喩だったからだ。●バングラデシュのコンサートでジョージが誰よりも参加を望んだのがボブ・ディランだった。ディランは興味を持ったが出演には二の足を踏んでいた。リハーサルには参加したが、ジョージから初期の代表作「風に吹かれて」を歌ってはと持ちかけられ激怒した。「君だったら「抱きしめたい」を歌うかい?」●このコンサート当日、中盤「ヒア・カムズ・ザ・サン」のアコースティック・ヴァージョンが終わってジョージは舞台そでに目をやった。ディランはまだステージに立つと約束していなかった。ジョージ「彼がステージに立つこの瞬間まで、来てくれるか自信がなかった」(結局、ディランは「風に吹かれて」を歌ったが)●その後、ジョージは妻パティとの結婚生活が危機を迎える。パティによるとジョージはセックスは子供を産むためにのみ利用するものだという宗教的な考えを持っていた。彼女は孤独に陥りエリック・クラプトンと関係を持った。この時のことを歌ったのが彼の代表作「レイラ」だというのは有名な話だが、この頃のジョージは情緒不安定でリンゴとモーリン夫妻の家で開かれたディナー・パーティーで、彼はリンゴの妻を愛していると言い放った。パティは泣きながらその場を離れ、リンゴもなす術がなかったそうだ。これを知ってジョンは激怒して近親相姦みたいなものだとジョージを非難した。そんなことがあってもジョージとリンゴの交友は続いた。●1999年10月30日午前3時、ジョージの自宅で大きな物音がした。妻のオリヴィアに起こされたジョージは下に降りると若い男がナイフを持って立っていた。ジョージは男にタックルしてもみ合って床を転げまわりジョージは刺されてしまう。警察が突入して男は逮捕されたがジョージは肺に損傷を負い、ナイフの刃は心臓にあと数インチのところだった、そうだ。本当波瀾万丈の人生で、でもそこに彼の人間臭さを感じて自分は好きなのだ。
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1〜 4件 / 全4件
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内容をご確認のうえ、修正いただきますようお願いいたします。
ユーザーレビュー:4件
投稿日
2022/10/25
レビュアー
CCR※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
この本には、当時彼と同時代に活躍していたアーティスト達の亡くなったジョージに対するコメントが掲載されているのが興味深い。ミック・ジャガー「あいつのやったことで画期的な事はロックンロールとチャリティーを結びつけたことだ。それに「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウイープス」、素晴らしい悲哀に満ちた曲だ。ああいう曲はギタリストしか書けないよ。大好きな曲だ。それから「マイ・スイート・ロード」。あの曲と同じコード進行の曲はいくらでもあるが、あれはすごくいい曲だ。ビートルズは人生の大きな一部だったからね。ああいう人間が亡くなると、ある意味自分の人生の一部が欠けてしまったような気分になるもんだ。」キース・リチャーズ「ジョージと俺は同じタイプだった。そのことをそんなに語り合ったわけじゃないけどね。それぞれのバンドで同じ役割を果たしていると自負していた点では絆が出来てたね。うなづいてウィンクして「俺たちがいなきゃバンドは成り立たないぜ」って言い合うみたいな。俺が連中の中で初めて親しくなったのはジョンだった。ジョージは静かだったからね。ジョージを見てるといろんな点でチャーリー・ワッツを思い出すよ。控え目で謙遜していて紳士的なところとかね。俺自身はそうじゃないからね。けどあいつは紳士だった。」後年、ジョージが自宅で強盗に刺される事件についてキース「あんな素敵な奴があんな暴力を受ける羽目になるなんてね。つまり、オレならそういうのには馴れているんだ。何度も刺されたし、銃で撃たれた治りかけの傷もあるし」(何か可笑しい。流石ヤンチャ男だ。)エルトン・ジョン「ジョージには昔からすごく良くしてもらってた。僕が初めてアメリカに来て「エルトン・ジョン」を出した頃、チャートで18位とか19位だったかな、チャートには僕のヒーローだった人たちの顔ぶればかりで、それを見て夢かと顔をつねった頃だ。ジョージからお祝いの電報が届いた。今でもそれはどこかにしまってあるよ。彼は思ったことをはっきり言う人で、僕のドラッグ問題のことで何度か叱りとばしてくれた。「サムシング」は、きっとこれまで作られた最高のラヴ・ソングでビートルズが作ったラヴ・ソングの中でも最高だ。「イエスタディ」よりずっといいね。」ポール・サイモン「ジョージとの友情が芽生えたのは1976年、「サタデー・ナイト・ライヴ」で共演したときだ。2人でアコースティックを抱えて椅子に並んで座って「ヒア・カムズ・ザ・サン」と「早く家に帰りたい」を歌った。僕がアート・ガーファンクル以外の人と共演したのと同じで、ジョンやポール以外の人とハモるなんて彼には違和感があっただろうね。それでも自然とコラボすることができた。彼の曲作りについても手法が自分に似ているといつも思っていた。みんなからは「静かなビートル」と呼ばれていたけど、特に静かというわけではなかった。単に自己主張しなかっただけなんだ。」ボブ・ディラン「彼は巨人かつ極めて偉大な魂であり、人間味、ウィットとユーモア、知恵、信仰心、常識、人々への思いやりを兼ね備えた人間だった。人々に愛をもたらし、百人分の力を持っていた。太陽、花、月のようだった彼を失った悲しみは計り知れない。彼のいない世界は底知れず空虚だ。」オノ・ヨーコ「ジョンはジョージを愛し、ジョージもジョンを愛していました。2人の友情はとても特別なものでした。ジョンはいつもジョージのことが正当に評価されないことを気にかけていたくらいです。これまでの慣例を破り、「サムシング」をレノン・マッカートニー以外のクレジットで、ビートルズのシングルとして出すことを主張したのはジョンでした。ジョージもそれを覚えてくれていました。」・・・自分は彼がジョンとポールという二人の強者の間で、ソングライターとして彼は唯一、誰も経験出来ない特殊な環境で徐々に実力をつけていくという事が出来た強運の持ち主だと思う。その一方で彼は運気の浮き沈みが激しくてグループ解散直後は4人の中でいち早く全米NO.1の大ヒット「マイ・スイート・ロード」、3枚組大作「オール・シングス・マスト・パス」を放ち、チャリティコンサートの元祖になった「バングラデシュのコンサート」を開催して序盤は快進撃を果たした、その一方で「マイ・スイート」が盗作で訴えられ敗訴、喉の不調もあって北米縦断コンサートの不評、才能が徐々に枯渇しヒット曲が出なくなって、その後自宅が強盗に入られて大ケガをしたり、その一方で人の曲ではあったが「セット・オン・ユー」が全米NO.1を獲って久々に輝き、彼が自宅に引き籠もっていた時期にクラプトンが一緒に観客のマナーがいい日本でコンサートをやろう、と引っ張り出してくれたのには本当感謝である。そしてまだ58歳の若さで逝ってしまった。彼を見てきて、4人の中で特に人生を感じる。
投稿日
2024/05/07
レビュアー
CCR※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
ビートルズ時代から、亡くなる直前までのジョージのインタビュー記録を年代順時系列に1冊にまとめたブ厚い書籍が最近出版された。自分が印象に残った箇所を抜粋する。
1970年「当時は積極的に曲作りに関わるのが難しかった。ビートルズがポールとジョンの曲で成功したせいもあって、なかなかそこに入り込めなかったんだ。昔からずっと一番声を多く上げた人の曲を皆でやる流れがあった。そうなると自分の曲を積極的に売り込むのが正直面倒臭かった。「アビイ・ロード」の時だって8曲くらいレコーディングしてから漸くボクの曲の番が回ってきた。
なぜそうなるかって、ボクが「曲を書いてきた」と言うと、ポールも「ボクも書いてきたよ。タララララ〜という感じで始まるんだ」と言い出して、気付くと彼の曲を皆でやっている。そこに食い込むのが本当に難しかった。ゴリ押ししたり、大声を出したりするのは苦手だ。でも、この1年くらいで漸く皆で決めたんだ。まあ、これも冗談みたいな話なんだけど。ボクが3曲、ポールが3曲、ジョンが3曲、そしてリンゴが2曲担当する」
1975年「で、いざバンドを結成してセミプロでやっていた頃から、手応えみたいなものは感じていた。それは単なる自惚れかもしれないし、ただ生意気だっただけなのかもしれないけど、そんな事も分からない位、ボクたちは若かった。何かは分からないけど、ボク達には何か秘めたものがあった。カルマ・・・。何か前世と関係してるカルマだと思う。自分達が成功する予感が常にあった」
「ブライアン・エプスタインが生前結んだEMIとの契約には、もう一つポイントがあって・・・、確か製品要求条項というものだと思うんだけど、ある一定量の作品を提供しないといけない、という条項が含まれていて、実際は、その条項を既に1967年の「ホワイト・アルバム」で満たしているんだ。従って、あのアルバム以降ボク達は彼らに何の借りもないんだ。でも、そこで判明したのは義務は無くなったものの、もし何かを出すとなったら、それは自動的にEMIに行く、という契約だった事。つまりどういう事かというと、この5年間、ボク達は誰一人として作品を作らなくてもよかった。契約上の義務は何も無かった」
1977年「そもそも彼等(ジョンとポール)は沢山曲を書いてきて、当然自分達の曲が優先されると思っているから、ボクからすると彼等の曲を10曲やるまで待って漸く自分の曲を聴いてもらえた。だから「オール・シングズ・マスト・パス」にあれだけ沢山の曲が入っているんだ。ずっと出せずに便秘状態だった。そのせいで曲作りにずっと自信が持てなかった。なんせ、「へえ、いい曲だね」とは一度も言ってもらった事が無い。「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」を最初にレコーディングした時なんて、全く熱意が感じられなかった。いい曲だって手応えがあったから、本当に落ち込んで家に帰ったよ。
それで翌日、エリック・クラプトンをスタジオに連れて行く事にした。彼は凄く緊張していたよ。彼には「来てギターを弾いてくれればいいから。そうすればボクはアコースティック・ギターを弾きながら歌えるから」と伝えた。因みにビリー・プレストンを「レット・イット・ビー」に引き込んだのもボクで、その時も同じだったんだけど、その日、エリックが来た事で他のメンバーが、といっても主にジョンとポールだけど、少し自制して、普段より気前よく振舞うようになったんだ。エリックは「いや、彼等に何て言われるか分からない」と言って、凄く神経質になっていたけど、ボクは「彼等はどうでもいい。これはボクの曲だ」と言った。彼はメンバー以外でビートルズの作品に参加した初めての人だ」
「(エリック・クラプトンについて) エリックのことはボク達二人とも(ジョージと妻のパティ)大好きだった。今でもだ。でも長い付合いの中で、おかしな事が何度かあった。ボクが彼の恋人に手を出した事も1度あった。そんな事もあったから、彼がきっと仕返しをしたんだろうと普通は思うよね(笑)。
パティと彼が一緒になったのは、ボク達が完全に別れた後だ。何年もの間、ボク達は別れたも同然の状態だった。彼等が一緒になった事に対してボクは何のわだかまりも無かった。むしろ悩んでいたのはエリックの方だ。彼に会う度に、ずっと気にしてて。ボクがいくら「頼むよ。謝らないでくれ」と言っても信じてもらえなかった。「気にしてないから」と何度も言ったよ」
投稿日
2022/10/18
レビュアー
CCR※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
マーティン・スコセッシがジョージ・ハリスンの曲が好きなのは昔、彼の監督作「グッド・フェローズ」の中で当時のヒット曲が数多く流れる中に、ジョージの「美しき人生」を終盤、いい箇所で流していたので、それを感じていた。そして、後年、彼はビートルズではなく、ジョージ一人に焦点を当てたドキュメンタリーの本作を発表した。内容もPART1、2に分けてかなりの大作になっている。自分はこのソフトを発売と同時に購入したが、添付資料の冒頭の挨拶文に彼はジョージの「オール・シングス・マスト・パス」を初めて聴いた時を「私のハートはわしづかみにされた。」と述べている。ローリングストーン誌が出したジョージの関連本「コンプリート・ワークス」について書きたい。幾つか面白いエピソードが書かれてあった。●ビートルズ初期の頃のジョージ「ビートルズの中での自分の役割は、前にしゃしゃり出ないことだった」ジョン「ガキみたいに僕の後ろにくっついていた。あいつを同等と認めるまで何年もかかったよ」●余りに有名な話だが「ホワイトアルバム」で最も周りが認めてくれるだろうとジョージが期待していた「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウイープス」を聴かせた時にも、ポールとジョンは冷ややかだった。(この本の中でポールは同時期の「ジ・インナー・ライト」に対しては「インド音楽ということを忘れて、メロディーに耳を傾けてほしい」と述べて褒めているのだが)この曲をどうしてもアルバムに収録したかった彼は作戦を立てた。親友のエリック・クラプトンをセッションに迎えリード・ギターを任せたのだ。その頼みにクラプトンは「無理だ」と言って戸惑った。「誰もビートルズでプレイした奴はいないよ」と拒んだが、ジョージの説得で参加する。しかし、これほど際立ったギター・ソロを聴かされては、メンバーの誰も拒否出来なかった。●「サムシング」について「アビイ・ロード」のベストソングと認めながらも、殺される直前のプレイボーイ誌のインタビューでジョンは冷たい発言をしている。「あいつは2人の優れた作曲家と仕事をしていてそこから多くを学んだ。ジョージの存在は気にならなかったよ。透明人間みたいなもんさ」●同じく「サムシング」についてジョージ・マーティン「あの曲には驚いた。まさかジョージがここまでやれるとは思わなかったからね。初めはひどい曲を書いていたが、徐々に成長していったよ。私は少し自己嫌悪になってるよ。初めの頃もう少しかまってやればよかったってね」●「オール・シングス・マスト・パス」この3枚組アルバムについてジョン「あいつは狂ってる。3枚組のレコードを出すなんてさ。それにジャケットなんてまるで喘息のレオン・ラッセルみたいだ」ジャケットを見てジョンが苛立ったのは、ジョージが広い景色にぽつんと座り、周りを4人の怠け者のノーム(小さな妖精)が囲っている姿は。落ちぶれたビートルズの暗喩だったからだ。●バングラデシュのコンサートでジョージが誰よりも参加を望んだのがボブ・ディランだった。ディランは興味を持ったが出演には二の足を踏んでいた。リハーサルには参加したが、ジョージから初期の代表作「風に吹かれて」を歌ってはと持ちかけられ激怒した。「君だったら「抱きしめたい」を歌うかい?」●このコンサート当日、中盤「ヒア・カムズ・ザ・サン」のアコースティック・ヴァージョンが終わってジョージは舞台そでに目をやった。ディランはまだステージに立つと約束していなかった。ジョージ「彼がステージに立つこの瞬間まで、来てくれるか自信がなかった」(結局、ディランは「風に吹かれて」を歌ったが)●その後、ジョージは妻パティとの結婚生活が危機を迎える。パティによるとジョージはセックスは子供を産むためにのみ利用するものだという宗教的な考えを持っていた。彼女は孤独に陥りエリック・クラプトンと関係を持った。この時のことを歌ったのが彼の代表作「レイラ」だというのは有名な話だが、この頃のジョージは情緒不安定でリンゴとモーリン夫妻の家で開かれたディナー・パーティーで、彼はリンゴの妻を愛していると言い放った。パティは泣きながらその場を離れ、リンゴもなす術がなかったそうだ。これを知ってジョンは激怒して近親相姦みたいなものだとジョージを非難した。そんなことがあってもジョージとリンゴの交友は続いた。●1999年10月30日午前3時、ジョージの自宅で大きな物音がした。妻のオリヴィアに起こされたジョージは下に降りると若い男がナイフを持って立っていた。ジョージは男にタックルしてもみ合って床を転げまわりジョージは刺されてしまう。警察が突入して男は逮捕されたがジョージは肺に損傷を負い、ナイフの刃は心臓にあと数インチのところだった、そうだ。本当波瀾万丈の人生で、でもそこに彼の人間臭さを感じて自分は好きなのだ。
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ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド