山の音

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　懐妊による影響だろうか、尾形家の嫁菊子（原節子）が、“鼻血”を出して早朝の台所でうずくまるシーンがある。それを見た舅信吾（山村聰）が、タオルをあてがったり顔を上に向かせたりと、かいがいしく介抱する。半眼の原節子はどこかうっとりとされるがまま、なまめかしい息づかいまで映画は拾っている。
　何ともエロティック、それも「淫靡」に後一歩の、生暖かくほの暗いエロティシズム。心も容貌も美しいが不幸な嫁と、それを思いやる優しい舅という関係からは、どうみたって逸脱している。
　原節子にこんなことをさせる成瀬監督は、案外「鬼畜」なのかもしれない。そういえば、「流れる」でも朝帰りの岡田茉莉子をスリップ一枚にさせ、昨夜の情事を語らせていたっけ。

　川端康成原作、昭和２０年代も終わる頃、鎌倉に住まう中産階級（財産も教養もあり横須賀線で東京に通勤する）の家庭の人間関係の機微を、美しい嫁を中心に繊細に描いている。
　と、思わせて随所に地雷の如く、辛辣痛烈な台詞を場面を仕掛ける。たとえば、浮気で菊子を苦しめる修一（上原謙）の元愛人は、妻のことを子どもだと、修一は嘆いていたと語った後、
「奥さんに娼婦のマネをしろといっても、それは無理なんでしょうが」家庭におけるセクシャルな部分をあからさまにするなかなか凄い発言ではないだろうか。
　彼女の語る愛人宅での修一のＤＶぶりも常軌を逸して凄まじい。こんな男を演じさせられた上原謙に同情するほど。

　姑長岡輝子と出戻り娘中北千枝子の描き方にも容赦がない。だらしがない娘と意地の悪い母親。嫁の前で娘のがま口の中身を勝手に見てケチをつけるなんて。しかし転がり込んでこられるのは迷惑だという本音をリアルに演じて長岡輝子は私の手本です。
　鎌倉の瀟洒な邸宅にはどこかそぐわぬこの母子の卑俗さは、原節子を引き立ててはいるのだが。

　では、山村聰と原節子は美しいだけの人間か？そうでもないのではないかと、私は思う。誰にも相談せずに堕胎を決行してしまう原節子には、誇り高さとはまた違う、それこそ子どもっぽさのようなものを感じてしまう。そのイノセンスがいいのかもしれないが。
　山村聰はこの家庭の修羅の一番の原因かもしれない。妻には早世した美しい姉がいて、ほんとうはそのひとと結婚したかった。その想いが美しい息子の嫁に注がれ、息子は察して荒れ、実の娘はふてくされる。

　かように家庭とは、さまざまな情念が渦巻く、一歩間違えば地獄となりかねない場所で、その危うさを何事もないように淡々と品位を保って描いているのが本作。
　先日、Ｎスペ「無縁社会」で２０年後には「生涯未婚」というライフスタイルが男性で三分の一、女性で四分の一になるだろうと予測していた。そういえば、うちの息子も…。

若い嫁と舅を巡る静かなる感情の交錯する物語は、同じ鎌倉／東京を舞台にした処もあって、ついつい小津の”晩春”と比べてしまう。あちらが登場人物の日常レベルから決して視線を浮かせないのに対して、川端康成の原作はさておき成瀬のドラマはしばし非日常へと浮遊する。小津の映像には滅多に登場しない大嵐が鎌倉の静謐なる住宅地を襲うのもその一例だろうか。しかし、そこで映画が過剰な虚構に傾くことなしに、映像の表情にはあくまで端正なる均衡が保たれている。原節子さんの存在はもちろんだが、姑を演じた長岡輝子さんのコメディリリーフを装う茫洋たるキャラクターの効果も大きかったのだろう。
最後の冬枯れの広大な公園の場面がとりわけ美しい。昔、映画館で見た時は、遠くのビルの屋上にアドバルーンが上がっていたような気がしたが記憶違いだったようだ。それこれを含めてあらためて永遠なる名場面のひとつとして我が心のスクリーンに焼きつけた次第。

川端康成原作、水木洋子脚本、成瀬巳喜男監督と一流製作陣が揃っています。
舅・信吾（山村聡）と妻・菊子（原節子）とのプラトニックな関係が主題なんですが、この二人の家族たちがみな一癖あります。姑・保子（長岡輝子）は愚痴っぽく、何かあると「あなたは本当は美人の姉と結婚するはずだったのに、姉が亡くなったから代わりに私と結婚した」とひがんでいる。夫・修一（上原謙）は信吾と菊子の仲に嫉妬してか、冷淡で家庭をかえりみることなく浮気をしている。娘・房子（中北千枝子）は婚家から実家に戻り夫の不満タラタラ、と救いがない。
なんだか信吾と菊子だけが家族の中で浮いてるんですが、優等生の二人よりは救いようのない家族のほうが魅力的です。特に中北千枝子のグウタラぶりは見事。上原謙の冷淡さもよく似合っています。あと、信吾の秘書・英子（杉葉子）はやせっぽちで嫌な感じの女も印象的。
修一の浮気相手の同居人として丹阿弥谷津子が出てくるのですが、家庭教師をしている未亡人というのはぴったりでした。

三島同様、予想通りうっとうしかったです。
ラストに少しだけ救われましたが。
全体に人間の「業の深さ」「愚かさ」「無力さ」ばっかりが出ていました。
そうでない人間も、まれにはいるのですが。
あんな事を描いていた人間が「ノーベル文学賞」を取るのもなんか皮肉です。
川端はもう止めときます。

評価１３点
脚本★★★★☆　カメラ★★☆☆☆　演技★★★☆☆　興趣★★★★☆

この映画を見るかぎりにおいては、これは舅と嫁のエロチックな話ではない。そのような禁断の情愛となれば話は一挙に展開するのだが、映画はメロドラマではなく、あくまでホームドラマとして描かれる。私もついその気になって見たが、そのような描写はまったくない。もしそのように見えるのであれば、それは原節子のあのわけがよくわからない笑顔のせいだ（もちろん原節子のせいではない）。少なくとも山村聡にその気はない。

困ったことに（いちばん重要なのではあるが）、感情移入ができる人物がいない。主人公と目される尾形信吾（６２才？）という山村聡（このとき４４才！）が演じるお舅さんがいちばん問題だ。他の登場人物は誠に納得がいく。好き嫌いはそれぞれあるにしろ、人物の描き方がとても細やかで、各人とくに家族の構成員たちの、そのアクの強さはリアリティがあって（演技そのものは、だいぶ早撮りしたような拙劣さがめだつが）感心するばかりだ。ところが川端康成の原作がそうなのか、水木洋子の脚本がそうなのか、成瀬の物語の捉え方があいまいなのか。お舅さんだけがはっきりしない。どうも私の違和感は、主人公である尾形信吾（山村聡）の存在のあいまいさ、危うさにあるようなのだ。

それでは、主人公のあいまいさとは何だろう。
山村聡（尾形信吾）は、その妻長岡輝子（こちらも当時４６才だ）のセリフによってその輪郭を形作られるようになっている。たとえば次のセリフだ。
「昔から房子を嫌って、修一ばっかりかわいがってらしたじゃありませんか。あなたはそういう方ですよ」
「妙に菊子をいたわって、かえって残酷よ。あの子はお父様に悪いと思ってやきもちも焼けやしない」
このような的確ともいえる形容のせいで観客は、一見人の良さそうなやさしい舅も、じつはホームドラマの構成員のひとりにすぎないことを思い知るのだ。
したがって、この映画での長岡輝子の存在は大きい。水木洋子の脚本では、あきらかに長岡輝子を（ホームドラマの登場人物を紹介する）陰のストーリーテラーとすることによって、山村聡と長岡輝子の夫婦の世代から見た息子夫婦たちの性問題を眺めるという構図を示している。
おそらくこれは、川端康成の意図するものとは違うのではないだろうか。多くの観客が期待するように、舅と嫁のほのかな交情を読み取れば絵にはなるだろう。しかし脚本が精密すぎるがゆえに（尾形信吾を描くほどに、現実が重くのしかかるゆえに）、映画は老夫婦世代の無力感が際立っている。そのことが、主人公であるべき舅の存在感の薄さにつながるのではないかと思われるのだ。

もうひとつは、原節子の嫁の描き方にも一因がある。
川端康成は１９４９年から５４年までのあいだに、この小説を書いたらしい。小津映画の「麦秋」（５１年）がそうであるように、まだ家制度が色濃く残っている。出戻りの娘の房子（中北千枝子、こちらが女優生命を心配するくらい性格悪い。うまい）をきちんと描くのにくらべて、嫁の菊子（原節子）は家制度の只中で、嫁として労働力としてしか居場所がない。老夫婦に菊子、菊子と呼び捨てにされ、夫（上原謙）に菊子、と呼ばれるときは、夜の相手をしろと強要されるときだ。原節子が自分を主張するのは、身ごもった子どもを堕ろすときだけである。夫婦の不仲をみずから解決しようとはせず、舅のやさしさだけにすがるしかないという設定で、そこにエロチックな関係を見出そうとする川端康成（だと思うが）。
そのように考えて映画を見直すと、私には水木洋子と成瀬巳喜男の渾身の映画に、川端康成（というイメージ）が割り込んで邪魔をしてるとしか思えない。
この映画は、老夫婦が息子たちの世代の性観念の乱れ（とりもなおさず、戦前からつづく男社会の傲慢さ）を前にしてなすすべもない、という不条理としてみるべきなのだ。ラストシーン「ビスタってなんだ」「見通し線っていうんですって」原節子、初めていい顔です。